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鑑賞020「幻」(TB 151まで)

」の秀歌たち。

西巻真
 あといくつの死を分かちゆく日々なのか ゆふべ汗馬の幻を見き

砺波湊
 オアシスの幻に似て灰色の校舎のなかでひらく祭りは

梳田碧
 蟻の曳く荷物は骸ばかりなりキャラバンサライも遠い幻

中村成志
 月光は空き屋にも降り幻と見紛うごとくすずらんの房

(敬称略)


俳句には「切れ」がありますが、あれはものごとを
立体的に照射するためのテクニックなわけです。素人解釈ですけど。
 (照射された結果立ち上がってくる像は読み手によって違ったりします。)
俳句はめちゃ短い詩型なので「切れ」を使いますが、
短歌はまた短歌なりの「立体的照射」が必要なのだと思います。
 (もちろん俳句にも短歌にも例外はあります。)

たとえば「△△は幻(のよう)だった」だけだと、「単照射」にしかならない。
そこで、読み手の心の中に立体的な像を結ばせるために、
もうひとつの光源をつくってやる必要があるわけです。

優れた歌人にとってのもうひとつの光源というのが、
馬だったり祭りだったり蟻だったりすずらんの房だったりするんですね。

020:幻(理阿弥)








幻なき一生ひとよを急ぐの子らにジサツウキンのホームぞ暗き

鑑賞019「層」(TB 154まで)








再生の鐘鳴りやまずかなしみのどの層位にも浮かぶ小夜曲
  揚巻

たとえば感情や、過去の記憶やひとの歴史、人間関係などが
層状に折り重なってるように感じられることがあるけれど、
それを説明的でなく一首にする、その答えがここにあると思います。

◯◯は層になっている、という理屈から一歩先へ。
ロジックそのものを説明するのではなく、語りたい構造を大前提として、
その中で「わたくし」がどう感じているかを詠うのが大事なのでしょう。
音にも配慮の行き届いた一首です。


」の秀歌たち。

西中眞二郎
 唐突に高層アパート顕れて緑の中に廃墟めきたる

吾妻誠一
 高層へエレベーターで昇る間に 黄砂包みて一色宇宙

オリーブ
 とった手が青色に透けるぼくたちは成層圏を今越えるころ

我妻俊樹
 あの青い高層ビルの天井の数をかぞえてきたらさわって

(敬称略)

019:層(理阿弥)








幾層を削がれてれし我がはだえ湯屋の鏡は糢糊と曇りぬ

鑑賞018「準備」(TB 148まで)








名前とは死へのはじめの準備なり手触り淡き苔に水湧く
  中村成志

生を享けて名付けられること。それが死への第一歩だというのです。
人生は死の準備である、とはしばしば語られることで、
このお題でも、同じテーマの歌が変奏曲として数々見られましたが、
中でも最も過酷なメロディを奏でていたのがこの一首でした。
名前さえも、死のために用意されるだなんて。

しかし、辛いだけではない。
生命に不可欠な水が、名も無き苔のそばに溢れているという下句。
みなそのような生をいきているのだという実感があります。

この上句と下句のコントラスト。
「死ぬために生きる」
そのことこそが希望なのであると言っているよう。
明記されているわけではないので受け取り方は様々と思いますが、
それこそが名歌の条件でありましょう。
何度も読み返し味わいたくなる一首です。



準備」の秀歌たち。


藤田美香
 春がくる準備その一できるだけ色のなまえをつくっておくね

野州
 恋猫のようよう戻り来る朝は長葱植うる準備を始む

梅田啓子
 死ぬまでの準備期間を人は生く三年ものの梅酒のまろし

砺波湊
 看板になりかけのベニヤ板の群れ準備のほうがお祭りじみて

星川郁乃
 ゆきすぎた準備がときに悦びを削ぎひとびとの背中の丸さ

不動哲平
 スクワットかさねるたびに光る床準備はいつも永遠に似る

ワンコ山田
 「受けとめる準備整う」(飛び込めやしない腕・胸)写メイルが来る

(敬称略)

018:準備(理阿弥)








遠き昨日の準備のかたち帰らない部屋にひいやり水筒の肌

鑑賞017「失」(TB 149まで)

この春をはっきりと記憶する者の眼に、夜のネオンは、
多かれ少なかれ、後ろめたさを伴って映るだろう。
まあ一年くらいは。







失望といふ名の電車はあつたかな、ひかつてゐるよヨドバシカメラ
  西巻真

乗客である我々には、電車に掲げられたプレートが見えない。
終点は欲望通り?それとも失望通り?
命を預けている電車なのに、行き先を尋ねもしない。
おれたちは、現状から目を背けるのが得意なんだ。
 年金の受給年齢が引き上げられるらしい――
 そんなことよりiPhoneの新型発売はいつだ?

私たちは、衰えゆく自らの将来に目をつむるブランチなのだろうか。
幸福のうちに子をなし、苦しい生活の中を生き抜くステラだろうか。
ビビアン・リーは「明日は明日の風が吹く」と言って再び立ち上がったけれど、
それはまた別の物語。

誰かがブレーキを踏むのを、どこかで期待しているが、
もう止まれないことも知っている。
たとえそこここで爆発があったとしても。
そしてまた、明るい夜にほっと息をつく。

震災前に詠われたこの一首を読んで、どんな風に考える?
今日もまた、煌々と光っているぜ、ヨドバシカメラ。



」の秀歌たち。

砺波湊
 失う覚悟ができた今年のハムレットはちょっと笑ってちょっと手を見た

牛 隆佑
 僕もまた誰かにとっての失ったものでありえて宙を漂う

富田林薫
 失望を幾つ許せば春の日のわたしは羽根を持てると言うの

紗都子
 はじめから失われていた人だった眼鏡はずした祖父を知らない

由弥子
 ランドセル背負いて小道行くときより失うものの用意されたり

(敬称略)
カミソリーフ
題詠blogへの投稿、選歌、鑑賞。
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理阿弥(りあみ)



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