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鑑賞104「まさか」(TB184~287)









白鍵の足りないピアノの夢を見て舌先で歯を数える まさか
  秋月あまね

まさか」。難題。
どう難しいかは前回書いた気がするので省略。

一般的に歌一首は、初見でも五、六秒で読めちゃうもんだと思いますが、
その一瞬で物語が展開したり、発見があったりします。
この一首はその展開がとても良いですよね。
ピアノ・・・舌?歯?? ああ!

白鍵から歯、という私的な連想だからこそ、
「まさか感」を共有しながら読むことができます。
共感を得るためにこそ、的を絞って創るというのは、
短歌に限らず表現のツボのようなものなのだと思います。

台詞や地名などに紛らせるのではなく、自分の体験に引き寄せて詠むのであれば、
「誰もがまさかと思うだろうシチュエーション」を題材にしても
共感を呼ぶのは難しいでしょう。逆説的ですが。
読者が当然のように「まさか」と思うであろうこと…そこには発見も感動もないからです。

「あの人まさか浮気してるの」みたいなことを
短歌で提示しても「演歌かっ」と突っ込まれるだけなんで、
そういうところに嵌らないように、
嵌りそうになったら抜け出すように、
そういう感覚で私たちは詠んでいかないとなりません。



まさか」後半の秀歌たち。


みくにえり
 淋しさを支えるための洗濯機 わたしがサルだなんてまさかね

小倉るい
 まだまさかを期待している松の葉に秋雨の降るうねどり神社


(敬称略)
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鑑賞103「細」(TB183~296)







嫌なことどこまでもどこまでもどこまでも 細かく細かくきざんだ玉葱
  滝音



ビニ傘は細魚(さより)のごとく濡れている もういいもういいわたし出ていく
  T-T

畳句を使った歌ふたつ。
同語の畳み掛けによって、やるせない感情が強く表されています。
どこかにぶつけたい、どうしようもなく切迫した気持ち・・・

二首とも、上句と下句の内容が付かず離れずの距離でとても良い。
もう何度も何度も書いているけれど、これが単なる因果だったり、
あるいは一方がもう片方を説明しているだけになってしまうと、
歌の奥行きが狭まってしまうんですよね。
 悪例:嫌なことがあったから/玉葱を刻んだ

畳句には、繰り返しによる意味の強調の他に、
リズムを整える作用もあるみたいですね。
滝音さんの歌は、
五・十・五・八・八(五・五・五・五・八・八?)
という形ですが、つかえることなく読めます。
これが同語の繰り返しでない場合にどうなるのか、
興味がわくところだけど、こうはうまく行かないんじゃないかな?

それからT-Tさんの「ビニ傘は」の助詞「は」。
選択肢として他に「が」か「の」が考えられますが、
「出ていく」と喚かれているその一方で、傘が濡れてんな…と
全然関係のないことが意識されている。
そういう「は」なんでしょうね。
「が」だと、もう少しきっちり言い切る感じが出て、
そのこと自体が下句に関係しているかのような効果になってしまう。

と、ここまで書いて係助詞と格助詞の違いって
よく分かってないな、と思って調べてみると
こういう記事があった。
係助詞「ハ」と格助詞「ガ、ノ、ニ、ヲ、ト、カラ」とは次元が違う

なるほど。
改めて説明されると腑に落ち…るような気もするし、
ますます混乱した気もする(笑)
まあ学校文法だと思ってあまりこだわらないとするか。

「細」の良歌二首でした。



」後半の秀歌たち。


兎六
 職歴に糸と見紛うばかりなる細き柱を一本立てる

松島
 春なのにその昏さゆえ喜びもか細く告げる哀しみありて

ひぐらしひなつ
 筆ペンの細い方から駄目にするあなたの癖字すこし掠れて

みくにえり
 もうずっと来ない電車を待っている君の小指はとっても細い

青山みのり
 ひきだしが細く開いててなにかくるなにかでてくる 明日はいい日だ

村田馨
 見あげればか細き月のほの光る哲学堂は深く眠りぬ


(敬称略)

001:今(理阿弥)









(とり)絞めの一つ話の祖父の手にアヲハタの蓋かたき今朝なり

鑑賞102「幸」(TB174~303)









山盛りのフライドポテト 金子には金子の見つけた幸せがある
  小林ちい

金子には金子の。私には私の。それぞれの。
うん、それでいい。
とも読めるし、それでいいのか金子よ、なのかもしれない(笑)。
誰もが好きだけど、食べ過ぎるのはちょっとダラしない、
フライドポテトという選択が絶妙。

こういう少しシニカルな視点は、持って生まれたものというか、
努力してもなかなか得難いだろうし、
頑張って同じように詠もうと思っても、
あざとくなっていってしまう気がする。

こういう歌風に憧れながら、自分の詠む作品は全然違う方向へ
向かうのがつくづく不可思議・・・
嫉妬を感じつつ、第一席。



」後半の秀歌たち。


揚巻
 親しげなその一枚目、幸せの終わりを始めるためのドミノよ

おおみはじめ
 幸薄(さちうす)と言いつつ笑う女らを白く塗られた墓に見立てる

羽根弥生
 幸福な王子に添ひしつばくらめおまへは少年だらうねきつと

新藤ゆゆ
 おたまじゃくしをすくうみたいに幸せな指のかたちに折りまげてみる

歌音
 幸福の駅にてわらう写真だけ残したひとに触れて水脈

ひぐらしひなつ
 膝についた砂を払えば幸福の遠景として立つ無人駅


(敬称略)

参加します(理阿弥)

四度目となります。よろしくお願いします。


__________________________________________________________
題詠blog2012への参加表明です

鑑賞101「初」(TB174~315)

三月。
自分の題詠が全く進まず、未だ参加表明にも至らない…。
詠めないなら、読めばいいじゃない。

と、いうことで、001~054のお題の読み残した歌を、
少しずつ鑑賞していきます。百番台の番号をつけて。










六月。初潮を知らぬ少女らの泥にまみれた素足を拭う
  ひぐらしひなつ

春に花開いた生命が、ぐんぐん成長していく季節。
泥まみれで遊ぶ無垢な少女達と、わたし。
「知らぬ」少女らの足を拭う、「知っている」私。

対象に反射させて自身のことを表せるのが、言葉のすごいところ。
詩において「私が、私が、俺が、俺が、」ばかり言ってると
胸焼けをおこしてしまうわけで、こういうふうに「他者」を
描写することによって自分を表す、ってことを覚えると
表現の幅が広がるんだな、と思うのであります。

陰陽、明暗、という反対の性質を持つものを一首中に対置するのも、
ひとつの詠み方なわけですけど、そのうちの片方だけを詳述すれば、
両方について語れるんですね。

この一首には作中主体の心中も、人となりも来歴も書かれていない。
だからこそ豊かな世界の広がりがある。
「俺が○◯して△△と感じた」式の「俺が俺が短歌」だと、
それが唯一の正解になってしまうので、読み手側はそれを
受け入れるか反発するかの二者択一になってしまう。
それはどちらかというとエッセイ向けの表現ですよね。

「俺」、あるいは「俺とあの人」のことばっかり詠ってないか、
振り返ってみるのもいいかもしれません。



」後半の秀歌たち。


尾崎弘子
 図書館の(すみ)はあたたか折り目なき表紙を初めて開く(わたくし)

市川周
 初雪やバカ犬のバカ二割増し(いっそバターになるまで廻れ)

我妻俊樹
 だれだって最初の靴のかかとにはとれなくなった蝶が必要

豆野ふく
 冬の香も少し遠のいた昼下がり 初めましてに丁度良い空


(敬称略)
カミソリーフ
題詠blogへの投稿、選歌、鑑賞。
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理阿弥(りあみ)



ツイッター: Assam_Occam


 歌歴:08年より。
 口語でも文語でも。

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